沖縄ブラジル協会ロゴ
沖縄ブラジル協会
ブログへ戻る

移民

なぜ沖縄や日本各地から海外へ?ブラジル・アルゼンチン・ペルー・ハワイへの移民史

ポルトガル語・日本語で公開

なぜ沖縄や日本各地から海外へ?ブラジル・アルゼンチン・ペルー・ハワイへの移民史
テーマのイメージ画像です。本文で述べる出来事の記録写真ではありません。

1945年の沖縄戦より何十年も前から、沖縄出身者は海外で暮らしていました。すべての移民を「あの戦争から逃れるため」と説明するのは正確ではありません。戦前の労働移民・コミュニティ形成と、戦後の復興・家族の呼び寄せ・農業開拓という大きな流れがあり、国ごとに時期や条件が異なります。

移住したのは沖縄の人だけではありません。広島、山口、熊本、福岡など、日本各地から人々が海を渡りました。ここでは日本全体の移民史と沖縄の歩みを区別し、すべての家族に同じ理由や経験があったとは考えません。末尾に出典と祖先を調べるための資料を紹介します。

1. 年表:戦前なのか、戦後なのか

ハワイには1868年の「元年者」が渡り、政府間の協約に基づく官約移民は1885年に始まりました。沖縄初の組織的移民は1899年末に出発し、1900年に到着しました。ペルーの日本人契約移民は1899年に始まり、沖縄のコミュニティは1906年を出発点として記念しています。ブラジルでは1908年6月18日に笠戸丸がサントスへ到着し、沖縄出身者も乗船していました。いずれも1937年の日中戦争、1941年の太平洋戦争より前です。[1, 2, 3, 4]

アルゼンチンの日系社会は20世紀初頭、ブラジルやペルーからの再移住も含めて成長しました。ブラジルと同じように一隻の船だけを起点とする説明では不十分です。ボリビアには戦前にも日本・沖縄出身者がいましたが、現在のコロニア・オキナワにつながる集団移住計画は戦後の1954年に始まりました。最初の個人の入国、社会の形成、移住地の開設は、それぞれ異なる出来事です。[2, 5, 6]

2. なぜ日本や沖縄を離れたのか

明治時代の近代化は、すべての家庭に経済的な安定をもたらしたわけではありません。小規模農家は税、借金、土地不足、収入の不安定さに直面しました。働き口の限られた地域では、海外で賃金を得て家族に送金し、できれば貯金して帰ることが選択肢になりました。募集業者や親族のつながりが実際の渡航を支えました。[1, 7]

1879年に県となった沖縄では、農業・砂糖への依存、限られた雇用、台風や経済危機への弱さなどが重なりました。1920年代の砂糖価格の下落は困窮を深め、「ソテツ地獄」と呼ばれました。ただし、これは1900年の最初の移民より後の危機であり、最初の出発の原因と混同できません。ソテツは適切に毒を除かなければ危険で、食用にせざるを得なかった暮らしを美化すべきではありません。[2, 7]

3. 渡航の仕組みと、期待と現実

移民会社などが募集、書類、船賃、農園での就業を仲介する契約移民が多くいました。一方、先に移住した家族が親族を招く「呼び寄せ」もありました。数週間の船旅に持っていける荷物は限られ、移住先を十分に知らないまま出発した人もいました。国や時期によって、単身の男性が中心の場合も、家族での移住が重視される場合もありました。[1, 4, 7]

短期間で貯金できるという期待に対し、実際には重労働、病気、予想より少ない賃金、控除や生活費、言葉の壁、雇用主との争いがありました。契約があっても公正な待遇が保証されたわけではありません。帰国する人、農園を離れる人、都市や別の国へ移る人がいました。移民は成功が約束された冒険ではなく、厳しい条件の中で選択を重ねる過程でした。

4. ハワイ:砂糖農園と沖縄移民の始まり

ハワイの砂糖農園は労働力を求めていました。日本の農村から見ると、提示された賃金は魅力的に映る場合がありました。日本からの渡航が始まったころのハワイは王国であり、1898年に米国に併合され、州となったのは1959年です。すべての時期を単に「米国の州」と呼ぶと、重要な政治的変化が見えなくなります。[1, 8]

金武の當山久三は沖縄からの組織的な海外移民を実現するうえで大きな役割を果たしました。最初の26人は1900年にハワイへ到着しました。沖縄出身者は農園の厳しい労働に加え、他県出身の日本人との言葉や習慣の違いにも向き合いました。やがて家族は職業の幅を広げ、故郷の集落とつながる団体をつくりました。[2, 7]

ハワイの沖縄社会は1945年以後に生まれたのではありません。沖縄が戦争で破壊されたときには既に根づいており、送金、衣料、食料などの援助を通じて復興を支えました。移民史は出発の歴史だけでなく、遠くから故郷を支え続けた歴史でもあります。[2]

5. ペルー:日本人移民は1899年、沖縄は1906年

1899年、佐倉丸が日本人労働者をペルーへ運びました。砂糖などの農業生産で労働力が求められ、各県から人々が移住しました。沖縄のコミュニティが記念する開始年は1906年です。1899年の最初の日本人移民を、そのまま沖縄移民の始まりとするのは正確ではありません。[3, 4]

農園で厳しい労働条件を経験した人々の中から、都市へ移り、小商店、サービス業などに進む家庭が現れました。家族や同郷者が住まいと仕事を探す助けになりました。この積み重ねがペルー日系社会におけるウチナーンチュの大きな存在感につながっています。ただし、ペルーの日系人全員が沖縄にルーツを持つわけではありません。[4]

第二次世界大戦中、特にペルーを中心とする中南米の日本人・日系人が拘束され、米国の収容所へ送られました。財産を失ったり、元の生活に戻ることが難しくなったりした家族もいます。これは自由意思による再移住ではなく、戦時政策による強制連行・収容でした。[9]

6. ブラジル:コーヒー、笠戸丸、農園の外への道

1888年の奴隷制廃止、コーヒー生産の拡大、ブラジル支配層の移民政策は外国人労働者への需要の背景です。20世紀初頭、協定や募集会社がその需要と日本側の収入への期待を結びました。1908年の笠戸丸には各県の移民と多数の沖縄出身者が乗っていました。沖縄戦より37年前の到着であり、沖縄戦の結果ではありません。[1, 6]

サンパウロの農園では、契約、生産量、借金、生活費によって実際の収入が左右されました。約束ほど簡単には貯金できないと知った家庭も多く、やがて別の農業、都市、地域へ移動しました。カンポグランデにも沖縄出身者が定着し、鉄道を含む地域開発に関連した仕事が別の道を開きました。地域のソバはその歴史の一つの表現ですが、家族の貢献は料理だけではありません。

戦後には親族の呼び寄せや移住事業による新たな来伯もありました。1908年の先駆者と戦後の移住者は、置かれた状況が異なります。今日の日系社会には、複数の時代・県・経路に由来する家族がいます。

7. アルゼンチン:二度目の移住という経路

アルゼンチン、とりわけブエノスアイレスには、商業、サービス、都市の仕事を求める人々が集まりました。最初にブラジルやペルーへ渡り、その後に別の国境を越えた人々も社会形成の一部を担いました。家族や同郷者のつながりが移動を支えたため、沖縄から直接ブエノスアイレスへの船旅だけでは説明できません。[6]

20世紀初頭、特に1908年のブラジル移民につながる再移住は重要な節目です。ただし、個人の最初の入国と記念行事で使われる年は必ずしも同じではありません。沖縄出身者には染物・クリーニング業などに携わる人が多くいましたが、それは当時の仕事の機会や親族間の技術継承と関係します。一つの民族全員の職業ではありません。戦後にも社会の継続と新たな移住がありました。

8. ボリビア:1954年の計画とコロニア・オキナワ

1909年ごろ、ペルーからボリビアへゴム採取の契約労働に移った沖縄出身者がいたとされます。1954年は最初の沖縄出身者が入国した年ではなく、米国統治下の琉球政府による大規模な集団移住計画の開始年です。戦災、限られた就業機会、土地へのアクセスの喪失・制限などが、戦後の移住の背景にありました。[2, 7]

当初の入植地「うるま」では病気による犠牲、水害、交通の不便さが重なり、移住地を変更する必要がありました。1956年には現在の第1移住地への移転が完了し、その後に別の移住地も広がりました。完成した農場を受け取ったのではなく、開墾、家づくり、長年の労働と不安がありました。[2]

穀物生産や牧畜が地域を変えましたが、成果だけを紹介すると初期の犠牲が隠れてしまいます。コロニア・オキナワは戦後移民の代表的な例であり、何十年も前に形成されたハワイ、ペルー、ブラジルの社会とは区別して理解する必要があります。

9. その他の行き先:北米、アジア、太平洋

日本・沖縄の人々は米国本土、カナダ、メキシコ、パラグアイなどにも渡りました。入国法が変わると移民の行き先も変わります。1924年の米国の法律は日本人移民を禁止し、南米へ向かう流れを強めました。単に地図から好きな国を選ぶのではなく、入国できる場所と現実的な仕事を探す必要がありました。[1]

フィリピン、太平洋の島々への出稼ぎ・移住に加え、台湾など日本の植民地や帝国の拡大に関係する地域への移動もありました。独立国への契約移民と帝国内の移動は同一ではありません。太平洋の戦争は沖縄以外の移住社会も破壊し、引き揚げを生みました。これらの記録は米州への渡航と同じ旅券名簿に載っていないこともあります。[7]

10. 既に海外にいた人々を戦争が襲った

戦争は渡航や通信を断ち、日本にルーツを持つことが疑いの対象となる国もありました。ブラジルでは国民化政策と戦争によって学校、新聞、団体、移動が制限されました。ペルーでは強制連行が起きました。米国西海岸では大規模な強制収容が行われ、ハワイでも拘束がありましたが、西海岸と同じように日系住民全体が一斉に移される形ではありませんでした。国ごとの違いが重要です。[9, 10]

1945年以後、生活の再建には差別、心の傷、故郷の悲惨な知らせ、アイデンティティの葛藤も伴いました。家族には移住先生まれの子がいて、現地の言語を話し、地域とのつながりも育っていました。残ることは沖縄を忘れることではなく、帰ることも簡単ではありませんでした。戦争は既存の社会を変えたのであって、すべてをゼロから生んだのではありません。

11. 1945年以後も、なぜ移民は続いたのか

日本は戦災、住居・雇用不足、海外からの引き揚げに直面しました。沖縄では集落や農地が破壊され、米国統治が1972年まで続きました。基地の拡大や一部の土地を使えない状況は、家庭の生活不安を深めました。これだけで個々の出発理由すべてを説明することはできませんが、戦闘の終結後にも移民が続いた背景を理解する助けになります。[2, 7]

農業移住事業、制度的支援、家族の呼び寄せが中南米への新しい経路をつくりました。ブラジルへの日本人移住は1953年に再開し、沖縄からボリビアへの計画は1954年に始まりました。開拓移住者の課題は、世紀初頭の農園労働者の課題と同じではありません。その後、日本の経済成長と就業機会の増加によって農業移住の比重は小さくなりました。[1, 2, 6]

12. 家族、文化、そして日本へ向かう新しい道

県人会や村人会は仕事探し、家族の支援、行事、三線・エイサー・祖先への祈りの継承を助けました。「ゆいまーる」はこうした相互扶助を理解する言葉ですが、社会に苦労や対立がなかったという意味ではありません。移住先の食材、言語、生活と交わり、新しい文化も生まれました。

20世紀末以後、多くの日系人が就労や学習のため日本へ移りました。「出稼ぎ」と呼ばれることの多いこの動きは、祖父母の移民とは法制度・経済・アイデンティティが異なります。ブラジル人、ペルー人、アルゼンチン人、日系人、ウチナーンチュという複数のつながりを持つ人もいます。1953年5月16日設立の沖縄ブラジル協会も、こうした社会を結ぶ一員です。

自分の家族が戦前・戦後のどちらに渡ったかを調べるには、氏名と表記の違い、出身の字・市町村、船名、出発日・到着日を探してください。沖縄県立図書館のデータベースは1900~1941年の記録を収め、JICAとペルー日系社会の「Pioneros」は県や船でも検索できます。検索で見つからないことは、渡航しなかった証明ではありません。欠落、判読の問題、別の記録に残る経路もあります。[3, 4, 7]

13. なぜこれらの国だったのか:行き先を決めた理由

移民は世界のどこへでも自由に行けたわけではありません。受け入れ国の労働需要、入国法、そして先に渡った家族のつながりが行き先を決めました。ハワイでは砂糖農園が労働者を求め、當山久三が沖縄からの道を開きました。温暖な気候も、沖縄出身者にとって慣れやすい点の一つでした。[1, 2]

米国では1907~08年の日米紳士協約で新たな労働移民が制限され、1924年の移民法で日本人の移住はほぼ閉ざされました。北米の門が狭まる中で、ペルー(1899年~)やブラジル(1908年~)が主な行き先になりました。奴隷制廃止後のブラジルはコーヒー農園の労働力を必要としており、多くの人が「数年働いて貯金し、沖縄に帰る」つもりでしたが、結果的に定住した家族が多数でした。[1, 6]

アルゼンチンは大規模な政府契約移民ではなく、ブラジルやペルーからの再移住と、親族を呼ぶ「呼び寄せ」で広がりました。ブエノスアイレスでクリーニング業や花卉栽培などに就き、故郷の親族を招きました。そのためアルゼンチン日系社会では沖縄系が多数を占めています。ボリビアは戦後、米国統治下の琉球政府が米側の支援を受けて進めた計画移住で、サンタクルス州に第1~第3移住地が開かれました。[2, 6]

14. ゆいまーると模合:家族を呼び、根を張る力

移住先で土地や店を持てた人は、兄弟、いとこ、同じ字の人々を呼び寄せる費用を工面しました。仲間が毎月お金を出し合い、順番に受け取る「模合(もあい)」や頼母子は、銀行から借りにくい移民にとって土地購入や開業の重要な手段でした。

こうした相互扶助「ゆいまーる」と県人会・村人会の活動が、ブラジル、ペルー、アルゼンチン、ボリビア、ハワイで沖縄系社会を大きく育てました。その歩みは、5年ごとに沖縄で開かれる「世界のウチナーンチュ大会」で世界中の県系人が再会する形で今も祝われています。

15. 現在、各国に県系人は何人いるのか

沖縄県はWUN(Worldwide Uchina Network)向けに2016年時点の推計をまとめています。日本国外に暮らす沖縄県系人は合計で約41万5千人。南米では258,059人で、内訳はブラジル162,892人(世界最大のウチナーンチュ社会)、ペルー71,831人、アルゼンチン16,390人、ボリビア6,946人です。この記事で見た移民の流れが、そのまま今日の分布につながっています。

北米とその他の地域の合計は157,302人で、アメリカ105,670人(うちハワイ約45,000人)、カナダ2,017人、メキシコ1,026人。南北アメリカ以外ではフィリピン(1,800人)、グアム(250人)、中国(216人)などにコミュニティがあり、シンガポールからザンビアまで25か国以上に県系人が暮らしています。

注意点もあります。南北アメリカ以外の人数は、子孫の総数ではなく県人会の会員数が基準です。また2016年の推計のため、現在の人数とは異なる場合があります。すべての国の数字は、当サイトの「世界のウチナーンチュ」ページにある世界地図で国ごとに確認できます。

出典・さらに学ぶために

他の記事

次の記事をメールで受け取る

お知らせを受け取る

イベント・ニュース・協会からのお知らせをメールでお届けします。